法月綸太郎のクイーン論について

後期クイーン問題について

法月綸太郎のクイーン論というと、おそらく「後期クイーン問題」という言葉がすぐに出てくる。
法月は後期クイーン問題について次のように言っている(2006年に瀬名秀明とおこなわれた対談にて)。

法月 まず定義からしてうやむやなところがあって、後期クイーン問題という言葉を一般化したのは笠井潔さんで、ぼくはもう少し限定された領域でしか使っていなかった。議論のレベルもいくつかあって、ニセの証拠・ニセの解決が用意され、真相は系のなかでは決定できないという問題がひとつ。それといわゆる<あやつり>の構造にまつわる議論ですね。あともうひとつは、探偵が事件のなかでどんな立場に置かれるかという倫理的な問題。
(瀬名秀明『瀬名秀明ロボット学論集』勁草書房 p.201-202)

以下の内容は後期クイーン問題を直接扱うわけではないけど、関係あるような、ないような。


追記: 2chスレ「後期クイーン的問題とかってくだらない。」から
問題の要約 http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/mystery/1292026598/306-308
扱っている文章など http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/mystery/1292026598/156-166

本格ミステリにおける「フェアプレイの精神」

本格ミステリにおけるフェアな記述の基準のひとつに、三人称の地の文で虚偽の記述をしないというものがある。もちろん、どこまでがフェアでどこからフェアでなくなるかの基準ははっきりしたものではない。通常、一人称の語り手が勘違いで誤った描写をしてもアンフェアな記述とはされないが、

たとえアーチャーが主観的にそう判断していたとしても、地の文の客観性を歪めるのはフェアではない、と作者が判断したからである。
(法月綸太郎『法月綸太郎ミステリー塾海外編 複雑な殺人芸術』講談社 p.279)

と法月が書くように、作者がそれ以上の基準をもうける場合もある。
逆に、たとえ地の文には虚偽の記述が一切含まれていなくても、意図的に重要な情報を隠すような記述はインチキだと判断する読者もいるだろう。しかし、そのような考え方のズレがあるにしても、記述に虚偽を含めないというのは本格ミステリの基本ルールのひとつとされる。
また、フェアな記述であるための別のルールとして、真相を見破るのに充分なデータをあらかじめ読者に提供するというのもがある。これは「虚偽の記述をしないこと」よりさらに曖昧な基準だけど、例えばクイーンの国名シリーズのようなものがひとつの理想とされる。
では本格ミステリでこのようなフェアな記述、フェアプレイの精神が要請されるのはなぜか。

本格ミステリでは、何らかの謎が明示的あるいは暗黙的に存在していて、最後に真相が明らかになり、それまで不可解だった様々なことが不可解でなくなる。この真相の提示における驚きや納得が本格ミステリの魅力の大きな部分だろう。しかし、描写に虚偽の記述が含まれている場合、その真相提示に対する驚きや納得は減少してしまう。また、真相に至るためのデータが充分でない場合は、少ないデータしか提示されていないんだからどんな真相があっても判りようがないということになって、やはり真相に対する驚きや納得が減じられてしまうだろう。

このように虚偽の記述や提示される情報の不足というのは本格ミステリの魅力を下げてしまうものなので、それを避けるためにフェアプレイの精神といった基準が要請されることになる。

しかし一見当然に見えるこの要請は探偵という要素を入れると不安定なものになってしまう。

探偵役の介入

謎があってその真相が明かされることが重要な要素である本格ミステリの多くで探偵役が登場するのは自然なことだろう。真相を明らかにする役割を持った人物がいた方が真相の開示をスムーズにおこなえる。
また探偵役を使うことによって、記述のフェアプレイ度を上げる(高いように見せる)ことができる。
与えられたデータが充分なものかどうか、つまり真相に至れるだけのデータが与えられたと読者が感じるかどうかというのは曖昧な問題である。そもそも多くの読者が真相に気づかないのは充分なデータを与えていないからだ(よってフェアでない)と考えることだってできる。しかし真相を探偵役が語ることによって、実はこの真相は事前に与えられた知識から判ることだったのだと読者に訴えることができる。そして探偵役の推理に読者が説得されれば、読者は充分なデータを与えられたのだと納得することになり、記述はフェアなものだった(不満のある記述ではなかった)ことになる。
しかし、探偵役の説明の仕方によっては逆に記述がフェアでないと読者が判断することになる場合もある。その最も典型的なのは、探偵役が読者の知らなかった事実を使って真相についての推理をおこなった場合である。その場合、読者は必要なデータをあらかじめ与えられなかった、フェアでない記述をされたと感じるだろう。これを避けるためには、探偵役に与えられるデータと読者に与えられるデータを同じにすれば(あるいは読者の方により多くのデータを与えれば)よい。この観点から言えば、読者への挑戦というのは、充分なデータを与えるという要請を満たしていることをはっきりと明示することによって、フェアである印象を補強する手法だと見ることができる。
しかし

  • 読者と探偵に同じだけのデータを与える。

という要請と

  • 読者には真相を見破るのに充分なデータを与える。

という要請とは必ずしも両立するとは限らない。
真相を見破るのに充分なデータを読者に与えるだけ、あるいは探偵が推理に使うのと同じだけのデータを読者に与えるだけならば、それに合うように記述の増減を行えばよい。しかし、その両方の記述が一致するとは限らない。もちろん物語は人工的に作られるのだから一致するよう意図することはできるけれど、ここには不安定さが潜んでいて、しばしばその不安定さが作品に表面化する。その例として、たとえばクイーンの『シャム双子の謎』とクリスティの『アクロイド殺し』を挙げることができる。『シャム双子の謎』はあとから扱うとして、まず『アクロイド殺し』を取り上げる。

アクロイド殺し』の場合

アクロイド殺し』では記述者であるシェパード医師自らが、手記には虚偽はなくフェアな記述であるとはっきりと主張している。にもかかわらず『アクロイド殺し』の内容には、その主張を素直に受け入れられなくさせる要素が含まれている。「この文章に嘘は書いていない」と主張されても信用する根拠がないと言いたいわけではない。それだけなら多くの小説に言えることで『アクロイド殺し』特有の問題ではない。
アクロイド殺し』のような「嘘は書いていないけど、事実の一部(あるいは多く)をわざと書いていない」手記というのは、それだけ取れば不自然なことではない。例えば私的な日記の記述で、書きたくないことは省略はするけど嘘は書かないというルールを取る人は普通に存在するだろう。シェパード医師もそれと同様のことをやったのだと一応は考えることができる。
しかしシェパード医師は作中で不自然な行動を取っている。それは名探偵であるポアロに自分の書いた手記を読ませるという行動である。一部分を隠しているとはいえ嘘は書いておらず、そのため自分のやったことが露見するかもしれないような文章をなぜ読ませたりするのか(しかも、読者の先入観によって犯人が判らなくなるという『アクロイド殺し』のメイントリックは、事件の渦中にいるポアロには成立しない)。シェパード医師が他人に手記を読ませなければ、手記には嘘は書かれていないという主張はまだ受け入れることができる。しかし自らが隠していることが露見しうる文章を他人に読ませるという行為は、手記には嘘が含まれていないという主張を疑わせてしまう。一旦疑ってしまえば、虚偽は書いていないという主張を信じる根拠はない。
ではなぜシェパード医師は自分の手記をポアロに読ませるのか。それは読者と探偵には同じだけのデータを与えるべきというミステリ上の作法のせいだと考えられる。本来、謎とその解明によって驚き納得するのは読者である。しかし多くの本格ミステリでは、謎の解明が探偵の手によって行われ、読者と探偵は違う水準にいるにも関わらず、あたかもおなじ地平に立って対峙しているかのように話が構成される。それにしたがえば『アクロイド殺し』でシェパード医師がポアロに手記を読ませるのも、読者と探偵の持つ情報を同じようにするために必要な行動だったといえる。さらにポアロ本格ミステリの名探偵らしく、シェパード医師に向かって手記の記述についての不満を述べて読者にヒントを与えている。それでもやはりシェパード医師の行動は不自然である。このような不自然さを呼び込むことが示すように、必要なデータを読者にも探偵にも与えるべきという要請には物語構造上の不安定さがつきまとっている。

なお、一人称の手記に虚偽がないと言われてもそれを信用できないという問題の解決として、三人称の地の文や手記ではない一人称記述で小説を構成し記述の正しさをミステリのフェアプレイの精神(地の文には虚偽を書かない)で担保した上で、記述的に読者を騙すというやり方がある。しかしこの方法は物語の謎を解決するという探偵の役割と対立する。小説の記述上の謎やトリックについては、探偵は解決したり解説することができないのだから。
クリスティの作品で言えば『そして誰もいなくなった』が三人称の記述を使った作例(若島正「明るい館の秘密」参照)で、『終わりなき夜に生まれつく』が一人称を使った作例だけど、どちらも探偵役は存在しない。

読者への挑戦について

謎がありその解決が与えられる本格ミステリを謎解きゲームととらえたとき、そのゲームの対戦相手は読者と作者である。作者が出した問題に対して読者は答えを考えたり答えが判らずに解決を読む。だが作者に代わって解答を述べる探偵役が作中に置かれると、読者対作者という関係だけでなく読者対探偵という関係も不可避に生じてしまう。そして真相を導くのに必要なデータを読者にも探偵にも等しく与えるべしという制約が生じることになる。しかし既に述べたように、本来レベルが違う読者と探偵を同じ地平に乗せ対等の立場に置くというのは、物語や記述に無理や不均衡を持ち込む不安定なものである。
クイーンがおこなった読者への挑戦という手続きは、この不安定さを消去し読者対探偵の構図を補強するための方法だった考えることができる。さらに、作者の名前と探偵の名前が等しいというクイーンの特質も、作者と探偵を同化させることで読者と探偵のレベルの差異を隠す手助けになっていたとも言える。
読者と探偵との関係の不安定さと読者への挑戦の関係については、法月も論じている。

メタレベルの下降を禁止することによって、「本格推理小説」というゲーム空間=閉じた形式体系が成立する。すなわち<読者への挑戦>のページは、「犯人--探偵」/「作者--読者」という「本格推理小説」の二重構造から不可避に発生する自己言及的なパラドックスを封じ込めるために、いわば論理的要請としてあらわれたのだといってよい。『フランス白粉の謎』以降の作品で、<読者への挑戦>の主体がJ・J・マックからエラリー・クイーンに移行することは、「作者名=探偵名」というクイーンに固有な作品構造からより鋭角的に生じる自己言及性の禁止と、「ひとつの推理問題」=形式体系として閉じた謎解きゲーム空間の完成が相即的に起こった事実を示している。
(法月綸太郎「初期クイーン論」、『法月綸太郎ミステリー塾海外編 複雑な殺人芸術』講談社 p.189)

しかし事態は逆で、読者対作者の対立を読者対探偵へと同化するためにこそ<読者への挑戦>が挿入されていると考えるべきだろう。クイーンにおける作者名=探偵名も素直に受け止めれば、異なるレベル間の移行を禁止するものではなく、異なるレベルを意図的に同列化しようとするものだ。

法月は、読者・作者・探偵にまつわる不均衡を把握しながら、おそらく柄谷行人の論に引きずられて逆向きの議論を行っている。法月の議論は「レベルやタイプの区別によって自己言及の禁止を行う→しかしそれは破綻してしまう」というものだが、実際にクイーンがやっていることは逆で「読者への挑戦を作者=探偵が行いレベルやタイプの区別をなくそうとする→しかしそれは破綻してしまう」である。これは『シャム双子の謎』に読者への挑戦がない理由からも言えると思う。

『シャム双子の謎』の場合

北村薫『ニッポン硬貨の謎』の作中で展開されるクイーン論で、『シャム双子の謎』に読者への挑戦がない理由が二つあげられている。ひとつは、読者への挑戦を挿入してしまうと、誤った推理とその否定を繰り返すという『シャム双子の謎』の構成の興を削いでしまうという理由である。

最初の逮捕から真の逮捕に行き着くまでを、長い旅にするのだ。[中略]したがって中途に≪読者への挑戦≫を入れることは、物語の根本精神に反してしまうのです。目次に≪挑戦≫の文字を置くことは、≪それ以前の解決が総て偽りである≫と、前もって宣言することになるからです
(北村薫『ニッポン硬貨の謎』東京創元社 p.143)

そしてもうひとつの理由は、物語の外側に(偽の)手掛かりが置かれているために読者への挑戦は入れられないというものである。

この作品で、あなたが最もわくわくしながら提示した≪手掛かり≫がこれです。[中略]画面の——つまりは物語の——外に描かれています。気づいたかどうか、読者に尋ねることは出来ません。いつも通りの、言葉でする≪読者への挑戦≫など入れられる筈がないのです
(北村薫『ニッポン硬貨の謎』東京創元社 p.153)

『ニッポン硬貨の謎』での議論を読むとどちらの理由も説得力があるが、より重要なのは後者の理由である。前者の理由だけなら『ギリシャ棺の謎』という類似例のように、誤った推理があらかじめ誤りだと判ってしまうという欠点はあっても、読者への挑戦を入れること自体は可能である。
しかし後者の理由では、そもそも読者への挑戦を入れることができない。物語の外の「証拠」という試みは、読者への挑戦によって成立する読者と探偵の公平な対決の構図とは相容れない。
法月は『シャム双子の謎』における挑戦の不在について

だが<読者への挑戦>の不在は、もっと別の角度から検討されるべきである。それはひとことでいって、ロジカル・タイピングの完全な破綻を示すものだ。
(法月綸太郎「初期クイーン論」、『法月綸太郎ミステリー塾海外編 複雑な殺人芸術』講談社 p.203)

と述べているが、これは逆向きではあるが正しい点をついている。読者への挑戦によって読者と探偵が同じレベルに置かれるという構図は、タイプレベルの異なる「証拠」を持ち込んだ『シャム双子の謎』では破綻せざるをえない。
法月がしているような数学基礎論との類比をあえてするならゲーデルじゃなくてタルスキにでもたとえた方がいいかもしれない。「体系内では真を定義することはできない。真偽を定義するにはメタレベルが要請される。上位レベル(読者)を下位レベル(探偵)と同列に置こうとする作業は完全には遂行できない」(「初期クイーン論」には、「タルスキーは、論理体系を外からながめて、言語の段階を区別し、高次(メタ)言語を設定した。[中略]こうした階梯化は、パラドックスを避けるために設定されたのだが」という柄谷行人の文章を引用しているけど、真理に対するタルスキーの仕事自体は「パラドックスを避けるために」おこなわれたのではない。ここで行った類比にしてもレトリックのようなものだから、あまり真剣に捉えてもしょうがないが)。

『チャイナ橙の謎』の読者への挑戦の記述について

『ニッポン硬貨の謎』では、『チャイナ橙の謎』の読者への挑戦の記述についても述べている。でもその部分の議論は間違っていると思うので脱線になるけれどそれについて書いておく。
まず読者への挑戦で問題とされる部分について、次のように書いている。

自分は著書の≪肝心かなめの個所で、読者への挑戦を挿入していた≫と語られます。そして、こんな回想を、続けるのです。

[中略]
ただ、覚えているのは、一編の小説が完成し、組版が終わり、ゲラ刷りが校正されたあと、出版社のある人が——まったく明敏な人物である——恒例の≪挑戦≫が脱落していることを、私に注意してくれたことである。私は、いささか赤面して、大急ぎで欠陥をおぎない、それは、最後の瞬間になって、脱落本に挿入された。

[中略]
あなたは、こう、お続けになりました。≪それから、私は良心にとがめられて、少しばかり探索に従事した。するとその以前の本でも≪挑戦≫を忘れていたのを発見した≫。——何と、ここに、日本の翻訳者は、(≪挑戦≫が脱落していたのは≪シャム双子の謎≫)という注をつけているのです!」
(北村薫『ニッポン硬貨の謎』東京創元社 p.133-135)

この記述の何が問題なのか。次のように言われる。

≪挑戦がないのは前作である≫ということだけに着目します。そうなると、クイーンさんの≪事情説明≫が矛盾だらけのものだと、すぐに分かります。
[中略]
意図の有無はさておき、挑戦が含まれないのは、ここまでの国名シリーズ中、前作に当たる『シャム双子』なのです。
となれば、あなたが出版社の明敏な人物に指摘され、挑戦を補ったという作品——『シャム』以降に書かれ、『チャイナ橙』よりは前の作品は、どこに消えたのです。
あなたは、あり得ない説明をしました。それが鍵です。それによって、この文章が≪創作≫であることを示したのです。
(北村薫『ニッポン硬貨の謎』東京創元社 p.137-138)

しかし「あり得ない」ことはない。別に深読みをしなくても「出版社の明敏な人物に指摘され、挑戦を補った」作品というのは『チャイナ橙の謎』自身を指していると読むのが自然だろう。そう読めば、この「読者への挑戦」自体が明敏な人物に注意されあわてて書いたもの、ということになる。「ただ、覚えているのは……」と昔のことのように語っていることは問題にはならない。まず、ついさっきの出来事(とりわけ失敗)をあたかも昔のことのように語るのは別に珍しいことではない。しかもこの「読者への挑戦」は初めから、現在の出来事をはるか昔のことのように回想する書き方をしている。

もはや昔のことのように思えるのだが、クイーンという紳士が探偵小説を書いているということを発見してくれた親切な人々、そしてまたその俊傑の作品をば読みつづけてくれた人々は、思い出されることであろう……初期の本の中でわたしが戦略的要所において読者への挑戦を挿入していたことを。
(エラリイ・クイーン(乾信一郎訳)『チャイナ・オレンジの秘密』ハヤカワ文庫)

(手元にハヤカワ文庫版しかないので、そちらから引用した)
北村は『シャム双子の謎』に読者への挑戦がない理由を補強しようとして読み間違いをしているように思う。

探偵の役割

『シャム双子の謎』における読者への挑戦の不在でも示されるように、読者と対等の立場で推理をおこない解答を提示する探偵という役割は、本格ミステリにおいて常に維持できることではない。では読者と対等な立場に立てない(あるいは逆にその立場から開放された)探偵は、本格ミステリにおいてどんな役割を担うのか。たとえば『十日間の不思議』『九尾の猫』『ダブルダブル』『悪の起源』などは、この問題から生じた作品だと見ることができる。で、途中だけど長くなったのでとりあえずここまで。