『セラフィムコール』について少し

『量子回廊』に収録されている田中哲也の短編「夜なのに」を読んだとき、まっさきに『セラフィムコール』第4話「飛翔する天使」のことが思い浮かんだ
ということは別にない。どちらも説明無しに時系列が次々にあちこちに移っていくという叙述をとった話なのだけど、語りのスタイルが似ているということにむしろ初めは気づかなかった。
「夜なのに」を読んで最初に思い浮かんだのは『恋はデジャ・ブ』だった。主人公の男が同じ一日を何度となく繰り返すことになるという最近ではよく見かける設定をとっている映画だけど、この映画で多用される時間的に離れている場面を意図的につなげて観客に見せるという演出が「夜なのに」の叙述形式から連想されたのだと思う。
『恋はデジャ・ブ』では、まるで撮り直しでもしたかのように少しだけ時間が巻戻って再び同じ場面が開始されるという演出がしばしば登場する。もちろん本当には(ストーリー上は)時間が戻ったのではなく、まる一日(あるいは何日もの)時間が経っているのだけど、その説明を意図的に省略し本来は離れている時点をつなげることで印象的な演出になっている。さらにこの演出から逆に、そこで省略された膨大な時間を印象づけることにも成功している(さらには「これは映画なんだ」というメタ的な気分も観客に与えていると思う。カットとカットに間に省略された主人公の膨大な時間を想像すると同時に、カットとカットの間にあった撮影風景にも連想が向かう。このあたりは恩田陸『ねじの回転』に似ているかもしれない。あれも同じ場面のやり直しが映画の撮影のように見える)。
でも『恋はデジャ・ブ』は本題ではなかった。
『恋はデジャ・ブ』について何となく考えているうちに『セラフィムコール』第7話「<わたし>という逆説」が思い浮かんだ。この話では、現在・5年前・10年前・15年前の出来事が同じ時系列にあるかのように続けて現れるという演出が何度も登場する(正確には単なる演出ではないのだけど)。これも時系列を分解し離れた時間を繋げることによって印象的な話になっている。
こうしたストーリーや演出は『セラフィムコール』の他の話でも見られる。
第10話「リアル・ブルー」では、女子高生マンガ家の主人公の出来事と彼女の描くマンガの内容が平行して語られていくのだけど、それらの話が二重写しのように微妙に重なりあい影響してストーリーが進んでいく。こちらの話でも異なる場面を意図的に並べて繋げることがストーリーと演出の核になっている。
(「<わたし>という逆説」「リアル・ブルー」の脚本を書いた村井さだゆきは『千年女優』の脚本も書いている。あとドキュメンタリー風ドラマ『Dの遺伝子』の「消えた和算家」の回でも数学ネタ+ストーリーが入れ子で終わるという話を書いていた。『セラフィムコール』では、ヌイグルミ視点に固定された第2話「マーガリン危機一髪」の脚本もこの人)
さらに第5話「夢の中の妹へ」第6話「愛の中の姉へ」では、ほぼ同じ話を姉妹それぞれの視点から語るという手法をとっている。普通、同じ出来事を別の視点から語り直す話というと、片方で語られなかった出来事や真相がもう一方で詳しく語られるという構成を取るものだけど、この第5話と第6話ではそれらとは逆に映像的にもストーリー的にもほとんど同じで視点の違いによる微妙な差異に焦点をあてた構成になっている(全体としてはあまり成功しているとは言えないと思うけど)。
こんな感じで『セラフィムコール』では、視点にこだわったストーリーや演出の話が多くて、それらを分解したり繋げたり二重写しにするといった演出が多用されていた。


といったことやこれらの演出とループものとの関係とかを『セラフィムコール』の最終話の日付である2010年12月24日に合わせて何かてきとうに書こうと思ったのだけど、内容が思い浮かばないまま25日になってしまったので中止。

そんなことより『セラフィムコール』について書かれた次の文章が面白かった。これをこのタイミングで読めただけで良かった。