『セラフィムコール』以前

ヒロインオムニバスアニメとセラフィムコール」に触発されて、90年代の作品についててきとうに書くことにする。『セラフィムコール』はあまり関係ない。

海がきこえる

セラフィムコール』(1999)の監督である望月智充が監督した『海がきこえる』(1993)は、一見すると奇抜な演出や特殊な設定などは出てこないアニメで『セラフィムコール』とはかけ離れた作品に見えるし、おそらくはアニメ版だけを何度見直してもそのようにしか見えないと思う。にもかかわらず原作を読んでみると、アニメ版の『海がきこえる』は分岐的あるいはパラレルワールド的な要素を内包していることがわかる。
それは一言でいってしまえばアニメ版の『海がきこえる』のストーリーは原作に改変を加えたものだということなんだけど、アニメ版が基本的には原作を丁寧になぞって作られながら一方で微妙な形で設定とストーリーを変更しているために、単なる原作改変作品以上に原作とのパラレルワールド的な印象が強くなっている。さらに、原作からの改変をおこなった理由をある程度推測できるために(メタな)分岐もののようにも見ることができる。

まずアニメ版では、原作で描かれていた大学入学後の東京での話が省略されている。これはアニメ版の尺の長さを考えると妥当な選択に見える。しかしその省略によって、主人公杜崎拓がヒロイン武藤里伽子と東京で偶然に再会するという出来事も描けなくなる。そのためアニメ版では、杜崎拓は卒業から夏の同窓会にいたるまで里伽子とは顔を会わせていないという設定になっている。それでもアニメ版はできるだけ原作のストーリーに寄り添おうとする。高知への帰省から同窓会のシーンにいたるまでだいたい原作どおりにストーリーも会話も進んでいくので、この時点では設定が原作から変わっていることはほとんど判らない。
そして同窓会の終わりから一気に原作からの分岐が始まる。
原作では同窓会の二次会から里伽子がやってくるのだけど、東京での再会シーンを省略しその結果そもそも再会の事実がなくなったアニメ版では里伽子はやってこない。そのため原作とアニメ版では違う話にならざるをえないのだけど、にもかかわらずアニメ版は原作に近づき重ね合わそうとする。
アニメ版では、同窓会から数人で帰っていく場面の最後で次のような内的独白をする。

ライトアップで浮かび上がった高知城は一人で見ても電気のムダにしか思えなかったけれど、
もし里伽子とふたりだったらきっと綺麗に見えるに違いなかった。

このセリフは、原作での二次会を抜け里伽子と夜の街を歩いている場面での語りに対応している。

そのうしろのほうに、ライトアップで浮かびあがった高知城がぼうっと闇に浮かんでいた。あんなもの、ひとりで見ても電気のムダにしか思えんかったけど、ふたりでいると、やっぱり綺麗や。

原作のこの部分を読んでからアニメ版のセリフを聞くと、あたかもアニメ版の主人公が原作(別分岐/パラレルワールド)に言及しているかのようにも聞こえ、ストーリーのパラレルさが浮かびあがってくるし、一種の分岐もののようにも見えてくる。もちろん分岐の原因が主人公の行動にではなく東京の出来事を描くか省略するかという点にあるので、通常の分岐ものとは違うけど。
そして、原作での里伽子との再会エピソードを削ったことを補完するために冒頭とラストの場面が付け加わってアニメ版の構造が完成することになる。(ところでこの冒頭のような感じで文字を出すタイミングが好きなんだけど、こういうのに例のアレとか何か呼び方とかあるのだろうか)。
脚本を担当しているわけではないのでこうした作品構成のどの程度が望月智充に由来するのかは判らないけれど、エンディングの作詞もしていることだし彼の影響がかなりあるのではと邪推したくなる。
追記:ここまでの話と関係ないけど『海がきこえる』は「長門有希の100冊」に入っていて『涼宮ハルヒの憤慨』でも長門キョンにすすめているくらいだから、『海がきこえる』から武藤里伽子→涼宮ハルヒっていう影響関係があるかも。

長門は五分ほど棚の前で硬直していたが、おもむろにこれを俺に突きつけた。まだ中盤までしか読めていないが、それは高校生から大学生に至る二人の男女が織りなす恋愛小説らしく、SFでもミステリでもファンタジーでもない、ごく普通の世界の物語で、様々な意味でその時および現在の俺の気分に合致していた。
(谷川流涼宮ハルヒの憤慨』(2006)スニーカー文庫(P.290))

分岐もの

だが歴史というのはたくさん存在する——そしてその歴史の一つ一つにわれわれもまた一本の世界線として登場しているんだよ。しかし、残念ながら、われわれは、他の歴史に登場する自分を知ることはできない——普通の場合は
(大原まり子「親殺し」(1981)『一人で歩いていった猫』収録)

『if もしも』

90年代の分岐ものというと、まずはドラマ『if もしも』(1993)がある。とはいえ、たぶん岩井俊二が脚本・演出をした回「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を生み出したドラマとしてのみ評価されている作品じゃないかと思う。しかしその「打ち上げ花火」も、作品としての出来の良さに比べると、分岐するという設定についてはそれほど活かしていない作品だったりする。
『if もしも』の評価があまり高くない(というか名前を見聞きすること自体がほとんどない)のは、分岐するという設定が受け入れられなかったからではなく、おそらく複数の脚本家に別個に脚本を依頼したために、変化球・アクセント回のつもりで書かれた「どちらの分岐もバットエンド」ものがやたらと多かったからではないかと思う。話はあまり覚えていない(Wikipedia各回のサブタイトルを見てもほとんどわからない)けれど、見ていくにしたがってどうせ今回も両方バットエンドだろとか思った記憶がある。
分岐ものとしては「「別れましょう」か「結婚しましょう」か」の回の出来が良い。分岐のそれぞれの話を交代で並列させながら進めていくという構成で、それぞれの分岐で別々の女性と結婚して別の娘が生まれ離婚して娘と再会して終わるという話だったはず(片方は一人暮らししているアパートに娘が尋ねてきて、もう片方は自分と元妻の母校を尋ねてそこでピアノを弾いている娘と出会う、だったか?)。それぞれの分岐を対比させ俯瞰視点を提供することで、それぞれの話の趣きが増す作りだった。
あとは、前半の分岐ではサスペンス調のストーリーと演出で不幸な結末を向かえ後半の分岐では主人公の勘違いコメディの結果ハッピーエンドに終わる「彼女がすわるのは左のイスか右のイスか」なんかが良かったかも。はっきり覚えていないので、くわしくどうこうと言えないけど。
全体としては「分岐する実験的ドラマ」という基本設定が出落ちみたいになってしまい、(岩井回のインパクトはあったにせよ)実験的というイメージからくる期待も不安も越えない範囲に収まったまま終わり、後への影響を与えることのない作品になった。
分岐する物語という形が珍しくなくなった今見返すとまた違った評価になるのだろうか。

弟切草

弟切草』(1992)は、サウンドノベルの第一弾として作られた作品だけど、パラレルワールド的な分岐と繰り返しがシステムとシナリオの核になっている点に大きな特徴がある。何度プレイしてどの選択肢を選んでもおおむね同じようにストーリーが進んでいき、終盤になって全く違う真相が明らかになるという何度も繰り返しプレイをしないと面白さが判らない作りをしている。
ストーリー分岐によってヒロインの根本的な設定が変わるという『弟切草』の作りは、ヒロイン選択式ゲームを一人のヒロインでやっていると見なせるかもしれない。今てきとうに思いついたけど。ただ、そうした設定で伏線を張りつつストーリーを展開させる部分に相当無理があって、冗談展開、冗談選択肢、記憶が混乱しているというお約束の言い訳で強引にまとめている(展開によってヒロインの背景設定が完全に違ったものになるというというのは例えば『かまいたちの夜』でも使われているけど、『かまいたちの夜』ではストーリー上の矛盾が生じないように早い段階で分岐が成立するし、背景設定が変わる部分は『弟切草』ほどにはゲームの中心的役割を果たしていない)。
さらに『弟切草』はストーリー自体に繰り返しを前提にした部分が含まれている。一度読んだ分岐の話を再び最後まで読むと、前回終了したところで終わらずに、いったん確定したはずの真相をくつがえす展開が続くシナリオがあり、同じ話でありながら繰り返しにより別の結末に至る。特に、実は全てがテストのための狂言だったという展開を繰り返すと、テストにギリギリ不合格だったからもう一度テストをやり直してくれと言われ焼け落ちた館が地面からせり上がってくるという、この話が何度も繰り返しおこなわれていることを示唆する楽屋落ち的な結末になる。ピンクの栞シナリオになると、主人公もヒロインも同じストーリーを何度もやっていると判っているセリフを普通に言うようになるし、最終的なエンディングも繰り返すごとに前の結末をくつがえすという展開になっている。
(全く関係ないけど、法月綸太郎『誰彼』(1989)の文庫版あとがきにある

私は校了の間際まで、事件の最終的な説明を覆す新事実を最後の一行に書き加えて、全てを水の泡にする誘惑と戦い続けていたからである。もしかしたら、潔くそうしていた方がよかったのかもしれないが。

の、その一行はいったいどういう文なのだろう)
このようなパラレルワールド的な分岐と繰り返しを核にした『弟切草』だけど、とにかく繰り返しプレイをするのが退屈なのが最大の欠陥だったように思う。どの選択肢を選ぼうがストーリーの大勢に影響はなく終盤に至るまで微妙な違い以外は同じ話を何十回もプレイするのは苦行に近い。

オムニバスドラマ

セラフィムコール』以前の短編オムニバス形式のアニメを探そうとしても、深夜アニメがまだそれほど多くなかった時期なので、代わりに深夜ドラマを参照する。
かすかに知っているのは『東京SEX』(1995)『東京23区の女』(1996)(どちらもフジテレビ系)あたりからになるけど、それぞれ1、2話ぐらいしか見たことがないので略。

1997年

などが放送されている(『幻想ミッドナイト』(テレビ朝日系)は短編小説原作だったということとつまらなかったという印象しかないので略)。
『恋、した。』は、失恋した女性が主役で、タイトルにカクテルの名前を付け、田口トモロヲがバーテン役で出演するという制約の上で制作された一話完結オムニバスドラマ。各話ごとに監督(演出)も脚本家も撮影スタッフも変わり独立に作られていたけど、これはオムニバスドラマではよくあるやり方。失恋した女性が主役ということもあって派手な展開をする話はほとんどなく、退屈としか思えない話もけっこうあったけど、「オールドタウンで恋をして」「花椿の秘密」「 PM6:31、アースクェイク」「ブルームーン」「シンデレラは2度ベルを鳴らす」「千話喧嘩」とか良いものも多かった。しかしタイトルを並べてみると失恋した女性の話というより失恋する話や失恋なのかも微妙な設定が多い(あげたなかでは、はっきり失恋しているのは「花椿の秘密」ぐらいか)。

『Dの遺伝子』はドキュメンタリー風ドラマ。テロップを付けたりインタビューをしたりといかにもな演出が多かった。偶然途中から見て深夜に時々放送しているようなドキュメンタリー番組かと一瞬思ったし。各話ともテクノロジーや社会制度がいくらか変化した近い未来に作られたドキュメンタリーという体なので、はっきりした真相にたどり着けないまま終わるパターンも多かった気がする。そもそも東海テレビでは一部しか放送していないはずで、ビデオも見れず。しかしこのあたりのドラマは、ネットで検索してもさっぱりデータが出てこない。
アニメと比べると、オムニバス形式の実写ドラマは各話の独立性が高くなる傾向がある。アニメだとたとえ各回が独立していても、監督やキャラクターデザインなどはシリーズ全体で同じ人がおこなうだろうし背景や小道具などの設定資料は共通だろう。そもそも舞台もキャラクターも一話限りの使いきりにすると、それだけ手間が増えて無駄が多くなりそう(アニメ・まんがのスターシステムはキャラクタ造型の省力化の意味もあるのか)。アニメに限らないけれど、作品は制作の仕方による制約を受けざるを得ないわけで。
アニメとの比較でいうと『いとしの未来ちゃん』がもっともオムニバスアニメに近いかもしれない。脚本・演出は全話で変わらず、レギュラーの脇役やセット・小道具のデザインなどで全体の統一感が作られている。『いとしの未来ちゃん』はテクノロジーの衰退した2100年に生きる少女が、幼い妹に21世紀の昔の出来事を語るという枠構造のドラマ。近未来のテクノロジーをネタにしたドラマという点では『Dの遺伝子』に似ているけど、脚本・演出から登場人物にいたるまで人工的な作り物感をはっきり出した内容だった。大体ベタな落ちに着地するストーリーであまり深く考えるタイプの話ではない。あとは写真によるエンディングがよかった。「ある愛の詩」の回とか。

1998年

と少女や女性を主役にした一話完結型ドラマが放送されている(『せつない TOKYO HEART BREAK』は、数回しか見ていないので略。ラジオDJ(國府田マリ子)とディレクター(渡辺いっけい)が毎回出てくることぐらいしか記憶にない)。
『美少女H』は、各話の主役が全員同じ女子高の3年H組の同級生という設定のオムニバスドラマで、各話ごとにドラマの雰囲気や方向性を色々変えた作りで、たぶん意図的に回ごとに演出家・脚本家を変えていたはず。

ある回の主役が別の回では脇役として登場していたけど、女優の名前=作中の役名だからどの話でも同じ名前で登場するというだけで、実際には全く話の繋がりはなくて話によってキャラ設定も違っていた。
たとえば仲根かすみの『美少女H』での主演回「最後の嘘」では同級生に対して嘘を重ねたために姉の彼氏を自分の彼氏として紹介するはめになるという役。一方『美少女H2』で主演した「ラストシーズン」では、隣に住む幼なじみと高校を卒業したら結婚する約束をして、そんなことを知らない親友に卒業間際に紹介したら親友がその幼なじみを好きになってしまいどうするか悩むけど、実は幼なじみの方も、という設定だった(どちらの話も嘘をつく話になっているけど偶然だろう)。さらに「軽い機敏な子猫何匹イルカ?」など脇役で登場する回では頭の軽い感じのいかにもな女子高生役になっていることが多かった。同様の設定の不整合は他のキャラでも生じていた。脚本・演出を色々な人たちに自由にやらせた結果で、もともと設定の統一性など考えていなかったのだろう(アニメで同じことをやったらメチャクチャ叩かれそう)。

話としては「最後の嘘」「せつない雨」「十七歳の記録」「夏の百合」「デッド・ボール」「ラストシーズン」あたりが面白かったけど、他にもけっこう印象に残る話がけっこう多かった(アニメと比較でいえば「デッド・ボール」での中沢純子の百合設定とストーリー展開なんかについて語れればいいのかもしれないけどその辺は全然わからない)。

なっちゃん家』はサスペンス・ホラー風の一話完結ドラマ。主役は毎回変わるけどいずれもなっちゃん(なつことかなつきとか)。多くの話の脚本を高橋ナツコが書いていた。演出では、片岡K行定勲佐藤信介、篠原哲雄など、上に挙げてきたドラマでも演出をしていた人が多く含まれている。何となく、これまで挙げた中では一番アニメにしやすそうな印象。記憶が曖昧だから詳しくいえないけど。
他に

でも短編オムニバスドラマがいくつか放送されていた。緊急治療室前の廊下と待合所を舞台にしたコメディ「緊急治療室の前」とか、固定カメラによる盗撮ドキュメンタリー風ショートムービー集「出歯ガメ」とか。検索しても「緊急治療室の前」の情報はほとんど出ないし、「出歯カメ」は柴咲コウが出ていた部分の情報しか出ないけど。
こんな感じで深夜のオムニバスドラマが色々あって、特に毎回女性を主役にすえるタイプのドラマの系譜があったように思う。


90年代後半のオムニバス形式の深夜ドラマを並べてみたけど、回想することで精神的ダメージを負っただけな気がする。オムニバス深夜ドラマはいかに回想されたか。
90年代末辺りを境に、一話完結ドラマは消えていき(『ココだけの話』(2001)が最後ぐらい?それでも数話をオムニバスでやるスペシャル番組みたいなのは時々やってたかも?)、代わって深夜アニメが台頭してきたような印象。