ガロア理論と方程式

方程式の解の公式の話とガロア理論の話はもちろん深い関係があるけど、にもかかわらず意外と相性は悪い。

解の公式、アルゴリズム

「方程式の解の公式はあるのか」とか「いつ方程式が解けるのか」といった問題は、「いつ実際に解くことができるのか」とか「解いていく方法(アルゴリズム)があるのか」といった手続的・構成的な問題だという印象を受ける。

しかしガロア理論ではそのような構成的な面が捨象されている(アルゴリズムはあるけど本質ではないのであまり説明されない)。理論が具体的な計算から離れているので、解の公式で始まった話がガロア理論に着地しても何だか釈然としない感じが残る。 

あと「解の公式を書き下せること」と「解を求める手順があること」は必ずしも同じではないんだけど、あまり注意されない気がする。
例えばax+by=gcd(a,b)の整数解を求める問題には、解を求める単純なアルゴリズムはあるけど、解をaとbで具体的に表す単純な公式は(たぶん)ない。

;; a x + b y = dを満たす(d,x,y)のうちのひとつを返す。ただしd = gcd(a,b)
(define (extended-euclidean-algorithm a b)
  (cond
    ((not (= b 0))
     (let1 q (quotient a b)
       (receive (d u v) (extended-euclidean-algorithm b (remainder a b))
         (values d v (- u (* q v))))))
    ((>= a 0) (values a 1 0))
    (else (values (- a) -1 0))))

ベキ根による可解性の問題でも初めは解の公式の話だったのが、解を得るための手順(アルゴリズム)の話にスライドして、それから最後に方程式の可解条件の話になって、そこでは解を実際に求めるとかアルゴリズム的なことは背後に退いてしまう(どころか全く言及されなかったり)。
そのあたり、「方程式を解く」ことの手続き的な雰囲気とガロア理論の持つ抽象性との齟齬を感じる(抽象への「転換」を強調すればいいのかもしれないけど)。

ガロア理論とベキ根による可解性の問題との関係

ガロア理論そのものを中心に考えると、ベキ根による可解性の問題は粗雑物とまではいかないけれど言ってみれば枝葉の話にすぎない。
もちろん方程式がベキ乗根だけで解けるかどうかという問題はガロア理論への強い動機になっている。

  • 方程式には解の置き換えについての対称性(「曖昧さ」)が隠れている(→自己同型群)。
  • 方程式の係数は解よりも対称性が高い。四則演算は対称性を崩さないので、解を得るにはベキ乗根を使って対称性を下げていかないといけない(→体と群の相互関係)
  • 方程式の解を全て体に追加した場合、体と群がきれいに対応する(→ガロア拡大)。

それでもやはり可解性の問題はガロア理論にとってみれば枝葉の応用問題であって、しかも扱うとなるといろいろ面倒なことがでてくる。原田耕一郎『群の発見』は、ベキ根による方程式の可解性の問題をきちんと扱うのがかなり大変なことがよく判るように書いてあるけど、それならいっそのこと面倒な可解性の話題に深入りしない方が、ガロア理論の説明としては判り易くなるんじゃないかと思えてくる。
でもその一方で、方程式が解けるかどうかとか三大作図問題の話を一切省いてしまうと、今度はガロア理論が何の意味があるのかよく判らない非常に近寄りがたい抽象理論に見えてくる(元々近寄りがたい抽象理論のイメージはあるだろうけどより一層に)。方程式や多項式に関わる部分を全て省いた基本定理の証明のメモを読み返してみても、何でわざわざこんなことを考えたいのかさっぱり判らない。理解に必要な知識は線形代数の初歩(一次独立性、線形空間の次元)と群・体・同型写像についての基本的なことぐらいのはずなのに、やたらと判りにくい内容に感じる。
たしか数学セミナーの記事の中に「ガロア群は体を揺さぶる心であり、ガロア理論はからだ(体)と心(群)の対応関係を示すものだ」みたいな文章があったけど、具体的な適用例なしでそれを言われても抽象的すぎて何が何だか判らない感じがする。
で方程式の可解性を主題としたガロア理論入門に戻ると。
何かもっと変格的なガロア理論入門があり得るんじゃないかとも思うのだけど。