法月綸太郎『生首に聞いてみろ』と「複雑な殺人芸術」

豊崎由美の書評は内容の妥当性と関係なく読むとたいてい不快な気分になる。そういう芸風なのかもしれないけど合わない。とくに、法月綸太郎『生首に聞いてみろ』に対するほとんど同じような内容の書評を続けて三つぐらい見たときは、すごく嫌な気持ちになった。そのうちの一つがたぶん次。

けど、「ロス・マクドナルドを思わせる家族の悲劇を描いて深みがある」系の評はどうよっ。ロスマクって、こんな薄っぺらだっけ?
[中略]
特に女子がひどいっ。法月さん、全体的に女子を駒みたいに動かしすぎ。都合よく殺したり自殺させたりしすぎ。女子をバカに描きすぎ。おまけに女子の生理をしらなさすぎ。[中略]なめんじゃねーよ、女体の神秘を。
(豊崎由美『正直書評。』学習研究社 p.41)

他の文章でもだいたい同じ文句を繰り返していたはず。
ところで、これで思い出すのが法月綸太郎による評論「複雑な殺人芸術」。

『ウィチャリー家の女』は、その悲劇性と文体的な完成度が高く評価されている反面、[中略]トリックに関しては、発表当時から批判が絶えない。
[中略]
最も痛烈な批判をしたのは、『推理小説を科学する』(一九八三)の著者、畔上道雄だろう。[中略]以下、少し長くなるが、引用してみよう。
(法月綸太郎法月綸太郎ミステリー塾海外編 複雑な殺人芸術』講談社 p.269-270)

引用部分は長いので要約すると「女子の生理をしらなさすぎ。なめんじゃねーよ、女体の神秘を」となる(恣意的な要約)。
また「複雑な殺人芸術」を読むと、『生首に聞いてみろ』がロス・マクドナルド作品を下敷きにして書かれたものだとわかる。北村薫のいう「自ら説明してしまう〈業〉」(北村薫法月綸太郎の複雑な才能」)。もちろん、家族の悲劇を描いたとかそういうことではなく。『生首に聞いてみろ』の21節やエピローグで書かれていることとか。
一方、同じくロス・マクドナルドへの言及を含む評論『誰が浜村龍造を殺そうとかまうものか』で述べているような視線の問題と『生首に聞いてみろ』とが、どう関係しているのか(していないのか)はよくわからない。

語り手関連のこと

あとは法月の小説からは離れた話。
「複雑な殺人芸術」に次のように書かれている。

つまりこの小説は、終始一貫してアーチャーというカメラアイを通して物語られているが、にもかかわらず"神の視点"が排除されていないということを意味する。
むろん、これは、ロス・マクドナルドがより厳格なフェアプレイの基準を自らに課していたことを意味するが、同時にこうした文体は、端的に言って、奇妙であり、不自然である(これはある意味では、探偵とワトスン博士の混交にほかならない)。ロス・マクドナルドの作品世界は、このように矛盾する文体によって描かれているのだ。
(法月綸太郎法月綸太郎ミステリー塾海外編 複雑な殺人芸術』講談社 p.281)

これを読むと「涼宮ハルヒ」シリーズの語り手であるキョンのことが思い浮かぶ。キョンの語りにはときおり(特にツッコミを入れるときに)作中キャラクタを越えた"神の視点"(というか作者の知識)が入り込む。キョンが読んでいるとは思えない本なんかからの引用がその典型だし、よく出てくる歴史関連への言及にしても本当に作中人物としてのキョンの知識なのかどうか結構あやしい気がする。とはいっても、キャラクタ設定の不備とか小説作法上のミスなどではなく、意識的に採用した語りのスタイルに見える。しばしば現れる単に考えただけなのか実際に話したのかはっきりしない文章も含め、キョンの語りは多重な語りが混じり合った一種奇妙なものになっている。
またアニメ版の『涼宮ハルヒの憂鬱』では、おそらくキョンを演じた杉田智和のアドリブだと思われるセリフがしばしば出てきたけど、あれは意図的なのか偶然なのかはわからないけど、キョンの多重な語りをすごく的確に再現していたと思う。一方では非常にキョンっぽいにも関わらず、単なる作中キャラのセリフとはズレている感じとか。

ロス・マクドナルドは、次のように洩らしている−アーチャーはわたしだが、わたしはアーチャーではない、と。この意味ありげな述懐は、作者と探偵の関係について述べていると同時に、彼の文体に混在する主観的な一人称と"神の視点"の間の緊張関係を説明したものではないだろうか。
(法月綸太郎法月綸太郎ミステリー塾海外編 複雑な殺人芸術』講談社 p.281)

これにならえば、谷川流も「キョンはわたしだが、わたしはキョンではない」と言うことができるかもしれない。言ったからどうだってこともないけど。