『それでも町は廻っている』の13話14話のサブタイトルが「それでも町は廻っている」なのは何故か

石黒正数それでも町は廻っている』の2巻を読んだとき、どうして13話14話のサブタイトルが「それでも町は廻っている」なのかと不思議に感じた。
第2巻に収録されている話は次のとおり。

それでも町は廻っている 2 (ヤングキングコミックス)

それでも町は廻っている 2 (ヤングキングコミックス)

第13話は歩鳥の日常を描くオーソドックスな話で第14話は変格系の非現実な話だけど、この前後編はわざわざ「それでも町は廻っている」と付ける必要がある話とは思えなかった。巻末のあとがきに理由になりそうなことが書かれてはいるけど、どうも納得できない。
その後しばらく考えて、こういう理由じゃないかと思いついた。
とりあえず次の文を引用する。

ちょっとややこしい話になるが、こういうことだ。私が今書いているこの話は、「SFアドベンチャー」という雑誌に掲載される予定である。ところがそれだけではないのだ。それからしばらくして、似たような短編がたまったところで、おそらく、短編集が単行本として刊行されるのである。今までの体験からして、まず間違いないだろうと思われる。そして、その単行本の刊行から三年ぐらいたつと、多分、文庫本になるのである。これも、ほぼ間違いないだろうと思われる。でもって、あなたはそのうちのどれの読者なのですか、ということが重要になってくるのだ。
(清水義範デストラーデとデステファーノ」(『黄昏のカーニバル』徳間書店))

単に「デストラーデとデステファーノ」と言いたかっただけで引用の中身はそんなに重要じゃない。つまり、雑誌連載で読んだ場合と単行本で読んだ場合の違いにポイントがあり、「それでも町は廻っている」というサブタイトルは雑誌連載時にこそ意味があったんじゃないかと思う。
第13話を雑誌で読んだ場合を考える。全体としてはオーソドックスなエピソードだけど、最後に急展開があり後編に続く。あの展開で、しかもサブタイトルが「それでも町は廻っている(前編)」。次が最終回で連載終了という可能性を予想しても不思議はない。
つまり「それでも町は廻っている」というサブタイトルは、連載終了かもしれないと読者に思わせるためのミスディレクションの役割を持っていたんじゃないかというのが考えた仮説。もしこれが正しいなら、単行本で読んだときにどうしてこのサブタイトルがついているのかわからなくても当然ということになる。そうサブタイトルをつけた理由がもう消えて無くなっているわけだから。
単行本で読んだ場合は、第13話14話の展開を読んでも、どうせ元の日常に復帰するだろうと思って読むのが普通じゃないかと思う。ちょうど、ミステリの序盤に自白や推理が出てきても、どうせ偽の自白、間違った推理だろと思ってしまうのと一緒。『それでも町は廻っている』にもミステリ系の話が多い(第13話の「ゼリー島殺人事件」なんかクイーンお気に入りのパターン、というか某作品っぽい)から、ひょっとするとそういうミステリにおける予断なんかのことも考えていたかもしれない。
で、この仮説が正しいかどうかはどうしたらわかるのか。一番はっきり結論が出るのは
「雑誌掲載時のサブタイトルは「それでも町は廻っている」ではなかった」
だと思うけど。

雑誌掲載と単行本で出てくる違い

どんなマンガや小説でも連載されているものを読んだ場合と単行本にまとめられたものを読んだ場合の印象はいろいろと違ってくるだろうけど、特に違いが大きそうなのは、短編の連作で、まとめると長編になるもの。例えば、山田風太郎くノ一忍法帖』、神林長平戦闘妖精・雪風』、宮部みゆき長い長い殺人』とか。『くノ一忍法帖』『戦闘妖精・雪風』なんかは読んだとき単なる長編だと思って読んで、初出が短編として発表されたとは気づかなかった。『長い長い殺人』は逆に短編の連作色が強かった気がする。
あと、雑誌掲載と単行本での違いが問題になるエピソードが北村薫『六の宮の姫君』にも『朝霧』にも出てきていた。

ある作家さんの選集を作った時のことよ。今普通に出ている本と戦前の本の突き合わせて見ていったの。そうしたら、幾つ目かの短編になったら、かなり手が入っているのよ[中略]異様に手が入っている。ーーそしてそれが、どうでもいいような手直しなのよ。直してよくなるところじゃない。しかもそれが、ーー周期的におこるの。
(北村薫『朝霧』創元推理文庫 p.68)

それから筒井康隆虚人たち』。『虚人たち』にはセリフの始まりと終わりでの改行はあるけど、段落変えによる改行が全くない。そのため改行なしで文章が続く場合が頻出する。しかも雑誌掲載時のものは、たとえ文の途中であっても改行なしでそのまま終わっていた。
例えば「海」1979年6月特別号に載った連載第1回の終わりの部分は

彼には思えた。あきらかに素直になり扱いやすくなってい
たがそれはあくまで彼に従う役割を自らに強制しての素直
さでありそうすることによって自分がより重要な役を果た
している学園での生活を背後にしてひたすら護り(未完)

で、1979年9月特別号に載った第2回の冒頭は

(承前)抜こうと心に決めたからに違いなかった。放射能すら通さぬ厚さの
鉛のような重い扉を閉ざして息子はおとなっぽい事件特有のおとなっぽい雰
囲気が自らの生活にほんの少しでも侵入することを許さぬ気でいる。その為

となっていた。これも単行本の方では痕跡も消えてなくなっている。