小説の理解や解釈について

小説を読んでからずっとあとになって、本を読み返したり人の解説や感想を読んで、全く読み違えていたことに気づくことが多い。たとえば『瓶詰地獄』について

《そのことを最初に指摘》と書いてあるのに、びっくりした。『瓶詰地獄』には、読んだ者の十人が十人、《おかしい》と思うところが二つある。これはその一つ[後略]
(北村薫『ミステリは万華鏡』第2章)

といわれているけど、もちろん「指摘」を読むまで全くおかしいと思わなかった。

読み違えることが多いから、何か解釈を思いついても、これはそもそも言うまでもなく自明なことなのかもしれないとか逆に的外れな解釈なのかもしれないと思う。

ウロボロスの基礎論』にも、作者が想定した読み方をしない読者の話題が出てくる。

僕の見積りでは、既に『偽書』を読んでいる人のなかで、あのあとがきを殺人鬼の言葉と受け取る人とそうでない人との割合は、ほぼ半々くらいだろうと想定していたのだ。だが、相当訓練された読み手であり、しかもかなり僕の作品を読み込んでいるという六反田君の口からそういう言葉が出たとすると、この見積りは大幅に修正しなければならないだろう。僕は直ちに両者の割合を二対八あたりかと弾きだした。そしてこの修正案は、その後の追認や検証を経て、現時点まで再修正されることなく生きのびている。
(竹本健治ウロボロスの基礎論』連載第一回)

たとえば、麻耶雄嵩『夏と冬の奏鳴曲』のタイトルがソナタなのは、主題が提示されて展開されて再現されるっていうのに掛けているところがあると思うのだけど、言及されている文を見たことがない。これは自明なのか的外れなのか。そもそもどうでもいいことかもしれないが。

また夏冬の章立てはあからさまにエラリー・クイーンの『第八の日』だと思えるのに、言及されているのを見たことがない。夏冬とクイーンの関係についての言及は見かけるから自明なのか、何か思いっきり勘違いをしているのかとも思う。